自分を愛するというのは、条件抜きにどんな自分でも価値あるものとして大切にすることであり、ちょうど神様が、どんな人間の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるように、気に入る自分にも気に入らない自分にも同じように接してゆくことです。
きたないところ、醜いところをもった自分、もしかしたら身体中傷だらけの自分から、目をそむけずそれらを否定せず、拒否せずに、むしろ傷口に「きたないね」と言いながら優しく包帯を巻いてあげること。「そんなに醜いお前など知らない」と顔をそむけたり、「弱虫のお前は私でない」と否定したりせずに「そんなお前とでも仲良く一生歩いて行こう」と語りかけてゆくこと。このように自分の傷に包帯を巻ける人が、周りの人の傷からも目をそむけることなく手当てでき、他人をいたわり愛することができるのです。
私たちにはいろいろな力が与えられていますが、その中で最もすばらしい力は、物事に意味を与えることのできる力ではないでしょうか。苦しみにさえ価値を見出し、ありがたいと思うことができ、逆境においてさえ微笑むことのできるのが人間なのです。
私たちにとって自由とは、決して、思うままにならない諸条件から自由になることではなく、それらの諸条件をどのように自分なりに受けとめてゆくかということにおける自由なのです。置かれたところで、自分の花を咲かせる自由といってもよいかもしれません。
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優しさということを考える時、私たちはとかく「他人」に優しくすることばかり考え、それ以前に「自分」に優しくすることを忘れがちです。「どうしてお前は、もっと他人に優しくできないの!」と自分を責めたりしています。しかし、他人に優しくできるためには、まず自分自身に優しくならなければなりません。それは決して、自分に甘い点をつけるとか、いい加減に生きるということではなく、まして利己的に生きることでもありません。それはどんなに惨めな自分も、それを受け容れてゆくということなのです。
人生はありのままの自分を受け容れてゆく遍歴の物語ともいえます。
私たち一人ひとりの人生の旅も結局、自分自身の旅でしかありません。空想の自分から現実の自分へ立ち戻り、その自分を愛してゆく旅なのです。
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人間が人間である以上、過去の深い悲しみを忘れ去ってしまうことはできません。
しかし、私たちには、たいへんありがたい能力が与えられています。それは、過去の悲しみを無理に忘れようとするのをやめて、想い出にできることです。しかも、私たちには、それらの「想い出たち」に後から価値を与えて、宝物にしてしまえるという能力も与えられています。
どれほど悲しい想い出にも、貴重な価値があり、そのことがあったからこそ、その悲しみを通じて成長できた現在の自分がいるのです。悲しい想い出たちに感謝をして、それらを綺麗な宝箱に入れて、かわいいリボンをかけてみましょう。時々、必要に応じて、宝箱の中から思い出たちがでてきます。その時は、しばらく可愛がってやってから「それじゃ、またね」と言葉をかけて、また宝箱の中に戻してあげましょう。その宝箱の中に入れる、悲しい想い出や辛い想い出が増えれば増えるほど、あなたも成長している証です。
その宝箱には、「私の成長記録」という名前をつけてあげましょう。
無理に忘れようなどとは思わず、宝物のような想い出にしてはいかがでしょう。さあ、どんな色の宝箱にして、どんなリボンをかけてあげますか?
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